石舞台古墳 … 総重量2300tの石による横穴式石室
築造は7世紀初めと推定されている「石舞台古墳(いしぶたいこふん)」は、蘇我馬子(そがのうまこ)の墓ではないかと言われています。なお、内部にある石室には、屋根部分の2つの巨石など大小30数個の花崗岩が使われており、総重量は 2300t にも及ぶ大規模なものとなっています。
Contents
「石舞台古墳」とは
「石舞台古墳」の被葬者
まず、石舞台古墳は誰の墓なのかというと、6〜7世紀にかけて 大臣などの要職につき権勢を振るった「蘇我馬子の墓」だとする説が有力です。
『日本書紀(にほんしょき)』推古天皇34年(626年)の条に「大臣薨(こう)せぬ。仍りて桃原墓に葬る」とあります。つまり、大臣は蘇我馬子を表し、「桃原」とは石舞台古墳周辺の当時の呼び名であるため、「蘇我馬子がなくなったので、桃原の地の墓に葬った」という解釈です。
また、付近の遺跡には、7世紀前半の大型の堀立柱による建物や方形の池が認められており、このことも『日本書紀』の記述と一致します。考古学として「蘇我馬子の墓」と証明されてはいないものの、当時を知る手がかりとなる遺跡の一つです。
蘇我氏の隆盛
蘇我馬子は、長きに渡り朝廷と深い関係を保ちながら権勢を振るってきました。具体的には、572年に即位した敏達(びだつ)天皇から用明(ようめい)天皇、崇峻(すしゅん)天皇、推古(すいこ)天皇と第30代から33代の天皇のもとで大臣として、時には大臣以上の権力を持ちながら 蘇我氏の全盛期を築きました。
物部氏との争いと仏教
しかし、蘇我氏が圧倒的な力を持つ前には、物部守屋(もののべのもりや)を中心とするライバル物部氏との争いがありました。 とくに、敏達天皇から用明天皇の時代には、「崇仏派の蘇我氏」と「排仏派の物部氏」は 仏教を巡ってたびたび対立します。
用明天皇が崩御すると、物部氏は穴穂部皇子(あなほべのみこ)を皇位につけようとしますが、馬子は穴穂部皇子を殺した上で物部氏を滅ぼすことを決意しました。そして、馬子は大軍で押し寄せると、激しく抵抗する物部守屋を討ち決着をつけます。
その後、権力を欲しいままにした馬子は、子の蘇我蝦夷(そがのえみし)、孫の蘇我入鹿(そがのいるか)が 645年の「大化の改新」で滅ぼされるまで権勢をふるいました。
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「石舞台古墳」の規模と形状
「古墳全体」の規模や形状
一辺約50m四方の石舞台古墳は、その周囲に幅数mの「堀」がめぐらされています。さらに、空堀の外側には幅が7mほどの「外堤」に囲まれており、外堤まで含めると 約80m四方の規模です。
また、墳丘に盛られていた封土(ほうど)* はすでになくなっているため、方墳の上部がどうなっていたかはわかっていません。方墳が二段や三段積み、もしくは上部は円形に盛られた上円下方墳と考えられています。
*封土 … 古墳の盛り土を指す。封建時代には主君が家臣に与えた土地を言うこともあった。
主な古墳の規模
大規模な古墳としては、大阪府堺市の「大仙古墳(仁徳天皇陵)」が有名です。また、墳丘長が120mを超えるものは、全国に120基以上が確認されています。ちなみに、以下は堺市ホームページの「古墳大きさランキング」の抜粋です。
古墳名 | 墳丘長m | 所在地 | |
1 | 仁徳天皇陵古墳( 大山古墳 ) | 486 | 大阪府堺市 |
2 | 応神天皇陵古墳( 誉田御廟山古墳 ) | 425 | 大阪府羽曳野市 |
3 | 履中天皇陵古墳( 石津ヶ丘古墳 ) | 365 | 大阪府堺市 |
4 | 造山古墳 | 350 | 岡山県岡山市 |
5 | 河内大塚山古墳 | 335 | 大阪府羽曳野市・松原市 |
6 | 五条野丸山古墳 | 310 | 奈良県橿原市 |
7 | ニサンザイ古墳 | 300以上 | 大阪府堺市 |
8 | 渋谷向山古墳( 景行陵 ) | 300 | 奈良県天理市 |
9 | 仲姫命陵古墳( 仲津山古墳 ) | 290 | 大阪府藤井寺市 |
10 | 作山古墳 | 286 | 岡山県総社市 |
「横穴式石室」について
「玄室(げんしつ、横穴式石室や横穴の墓室のこと)」は、長さ7.7m、幅3.5m、高さ4.7m、また、羨道(せんどう、玄室までの通路部分)は11m、幅は2.5m ほどです。
大小30数個の花崗岩(かこうがん)からなり、奥の壁は2段積み、側壁は3段積み、天井部には南北に巨石の2つの巨石で覆われています。また、天井部の巨石は、北側が約64t、南側が約77t、総重量で2,300tと推定される大規模なものです。
さらに、床は石が敷き詰められており、壁際には排水の「溝」が掘られています。なお、石室内の埋葬品は見つかっていませんが、羨道などの周辺部からは、「土師器(はじき)」や「 須恵器(すえき)」が発見されました。
内部には石棺があったと推定されており、「石棺のレプリカ」が展示されています。実際には、石室そのものが発掘されたわけではありませんが、平らに加工された凝灰岩(ぎょうかいがん)の破片などが見つかっていることや 当時の資料をもとに復元されたものです。
『石舞台』の由来
まず、石舞台の由来には諸説あります。その代表的なものが、石の形状や並び方が「舞台」のようであるということです。他にも、「女性に化けた狐が石の上で舞った」という話、「旅芸人がこの大石を舞台として使った」という話などがあります。
「石舞台古墳」の案内
それでは、利用案内やアクセスについて見ていきましょう。
利用案内
入場時間
8:30 – 17:00(受付は 16:45まで)
入場料
一般 300円、 小中高生 100円
アクセス
下記のほか、「レンタサイクル」で「飛鳥寺」周辺を巡る方法もあります。
公共交通機関で
近鉄南大阪線 および 橿原線 / 橿原神宮前駅から バス「石舞台」下車 3分
近鉄吉野線 / 飛鳥駅から バス「石舞台」下車 3分
車で
大阪方面から :南阪奈道路 / 葛城ICから 約20分
京都方面から :京奈和道路 / 橿原北ICから 約20分
和歌山方面から:京奈和道路 / 御所ICから 約15分
名古屋方面から:名阪国道 / 針ICから 約40分
地図
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最後に、周辺の情報の紹介です。
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