信貴山城 … 松永久秀が平蜘蛛茶釜と最期を迎えた地
![信貴山城](https://masa10blog.com/wp-content/uploads/2021/02/IMG_8225-1.jpg)
戦国時代には主に松永久秀が居城していた「信貴山城」は、奈良県下最大規模の典型的な「山城」として知られています。なお、現在は天守などの建造物は見ることはできませんが、信貴山の山頂には「信貴山城跡」の碑が立ち、その北側斜面を下ると「松永屋敷跡」も見て取ることができます。
Contents
「信貴山城」とは
「信貴山城」について
大阪府と奈良県の境にある信貴山城とは、生駒山系の「信貴山」山頂にあった城郭のことです。また、当初は標高437mの山頂に 南北700m、東西550m ほどの「奈良県内最大規模の城郭」であったとされています。
「信貴山城」の歴史
信貴山城の始まり
『日本書紀』に記述のある古代山城「高安城」と地域が重なりますが、「高安城」の遺構は見つかっていません。また、楠木正成(くすのきまさしげ)によって築城されたという言い伝えもありますが、史料は残っていません。その後、史料に出てくるのは、「応仁の乱」のあとに畠山(はたけやま)氏が軍事利用したことが最初です。
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木沢長政の城
1536年に大規模に築城したのが木沢長政(きざわながまさ)でした。 そして、信貴山城の山頂に築かれた広大な城は、信貴越えの要所でもあり大和支配の拠点として機能します。なお、1541年に笠置城に移るまで、木沢長政が居城としていました。
もともと室町幕府に対し貢献度の高かった木沢長政でしたが、「笠置城」の築城や畠山長経(はたけやまながつね)殺害などその行き過ぎた行為が問題視されていました。ついに1542年、室町幕府管領の細川晴元(ほそかわはるもと)は三好長慶(みよしながよし)や遊佐長教(ゆさながのり)らとともに 木沢長政に対して攻め込みます。その後「太平寺の戦い」と呼ばれた戦は、関連する勢力を懐柔するなど 用意周到な細川晴元が勝利し、信貴山城は落城することとなりました。
松永久秀の城
それから十数年の月日が流れ、当時三好長慶に仕えていた松永久秀が1559年に信貴山城を改修します。そして、大和の「筒井城」を本拠とする筒井順慶(つついじゅんけい)を破った松永久秀は、1560年には「興福寺(こうふくじ)」も破って大和北部を平定、その年の11月頃には 信貴山城に入城し天守を造営しました。
三好長慶が亡くなったあとも、三好長逸(ながやす)、三好政康、岩成友通(いわなりともみち)の三好三人衆らとともに三好家を支えていた久秀でしたが、やがて三人衆と対立するようなると内部では孤立し、1568年6月の「信貴山城の戦い」に敗れて信貴山城を追われることになります。
しかし、同年9月、織田信長が室町幕府15代将軍となる足利義昭を擁立して畿内を統一すると、久秀は信長に当時最高級の評価を得ていた茶入である「九十九髪茄子(つくもかみなす)」を差し出すなど 関係を強くすると、大和を支配することを認められ 信貴山城の奪還に成功しました。
こののち、将軍義昭と信長との関係が悪化するなど情勢が変化する中、久秀は信長の命に背いて「本願寺攻め」から離脱します。信長は嫡男の織田信忠を総大将にして筒井勢などを従えて信貴山を大軍で包囲すると、久秀は名器「平蜘蛛茶釜(ひらぐもちゃがま)」を粉々にしたあと 天守に火をつけて自害しました。その結果、信貴山城は廃城となっています。
現在の信貴山城跡
信貴山城は、毘沙門天王の総本山「信貴山 朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)」の敷地内にあります。そして、「本堂」の脇を抜けると信貴山城跡につながる道が続きます。なお、麓から山頂まで距離はありますが、「ハイキング」にはピッタリですね。
信貴山城への道
まず、「朝護孫子寺」の「本堂」手前を左に登ると、「鐘楼(しょうろう)堂」「多宝塔」を通り抜け「行者堂」を正面に右へと登ります。階段や坂道が続き、20-30分ほどすると頂上が見えてきます。
![信貴山城 登道](https://masa10blog.com/wp-content/uploads/2021/02/IMG_8223-1.jpg)
信貴山城跡碑
頂上にたどり着くと「信貴山城跡碑」を見ることができます。そして、「信貴山城跡」の看板の通りに道から右にそれると素晴らしい景色が広がり、その背後の盛り上がったところにあるのが「信貴山城跡碑」です。また、一般には入れないところもありますが、「空堀の切り通し堀」や「土塁」などが残ります。
![信貴山城 信貴山城跡碑](https://masa10blog.com/wp-content/uploads/2021/02/IMG_8225-1.jpg)
松永屋敷跡
さらに、頂上の「信貴山城跡碑」を過ぎて北側へ下ると、「松永屋敷跡」を見ることができます。途中の案内板では脇道へそれる方向に「松永屋敷跡」への矢印がありますが、細く険しめの道を通ることになります。なお、小さいお子様や体力に自信のない方は、そのままメインの幅の広い道路から「松永屋敷跡」へ向かうほうがよさそうです。どちらからも行くことができます。
![信貴山城 松永屋敷跡](https://masa10blog.com/wp-content/uploads/2021/02/IMG_8231-1.jpg)
武士
「松永屋敷跡」の少し南には、武士の格好をした人形があります。なお、見たところ、高さは1mぐらいだと思われます。とくに説明書きは見当たりませんでしたが、誰のどのようなシーンをイメージしてつくられたものなのでしょうか。
![信貴山城武士の人形](https://masa10blog.com/wp-content/uploads/2021/02/IMG_8229-1.jpg)
案内
それでは、場所の案内やアクセスについて見ていきましょう。
HP:平群町 > 信貴山城跡
住所:〒636-0923 奈良県生駒郡平群町信貴山1308(山頂)
アクセス
公共交通機関で
【信貴山麓の「登り口」までの時間(「登り口」から「信貴山城跡」まで 徒歩約30分)】
JR大和路線 および 和歌山線 / 王子駅から バス「信貴山門」まで 約20分
近鉄生駒線 / 王子駅から バス「信貴山門」まで 約20分
近鉄田原本線 / 新王子駅から バス「信貴山門」まで 約20分
車で
【 信貴山麓の駐車場までの時間(駐車場から信貴山城跡まで 徒歩約30分)】
西名阪自動車道 / 藤井寺ICまたは 柏原ICから 約30分
西名阪自動車道 / 法隆寺ICまたは 香芝ICから 約20分
第二阪奈道路 / 壱分ICから 約20分
地図
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